(4)街道の変遷と鉄道の開通
近代産業の発展と人びとのくらし
(1)農産物の変遷と農家の経済
(2)農家の副業から発展した工業
(3)商業の変遷と発展
(4)街道の変遷と鉄道の開通
今日、香芝市内でみかけられる道標には、二上山塊の国分と穴虫の両峠を越えた河内から大阪・堺方面を示すものと、「はせ・いせ・はしお・たはらもと・たへま・かうや・よしの・大峯山上・つぼさか・だるまじ・たった・ほうりゅうじ・なら」など主に大和国内の寺社詣での道筋を示すものが多い。
これらの道標の建つ旧街道で東西に伸びているものには、国分峠を越えて下田を経由し初瀬・伊勢に至る伊勢街道、伊勢街道から分岐して高村・上牧を経て馬見丘陵を横断する田原本街道、穴虫峠を越え畑・磯壁・狐井を通り瓦口で伊勢街道と合流する堺街道などがあげられる。
また、南北道としては国分峠から田尻・関屋・穴虫・畑・磯壁を経て當麻・御所・五条方面に至る長尾街道、王寺から下田を経て當麻に至る當麻街道、當麻街道と畠田で分岐して山裾を穴虫峠に至る太子道などがあった。
ところが、明治十(一八七七)年頃に、高田から下田への伊勢街道と、下田から王寺への當麻街道が拡幅改修され、同十三年には、田尻嶺(海抜百十メートル)の開削工事が行われて、仮定県道「下市街道」が完成する。
とくに、田尻嶺の開削は、大和から河内へ越す荷車の大半が、従来の竹内峠(海抜二百九十三メートル)から田尻嶺の方に集中するようになり、穴虫・関屋・田尻の街道筋では人びとの往来が頻繁になった。
その様子は、船木寛氏の「二上村是後篇」に「殊に新道開通以来下市街道、田原本街道は往来頻繁にして大字穴虫・関屋・田尻は非常の繁栄を極め旅舎櫛比して山間の一小都会を為せるが……」と述べていることによって知ることができる。
明治年間の主要道路の多くは、近世以前の旧街道を改修したものであった。
しかし、大正五(一九一六)年には、畑と下田間の道路が新設され、昭和初期には瓦口と別所にバイパスができ、昭和二十八年国道百六十五号線となるなど現在に連なる新道も徐々に整備された。
一方、明治二十四(一八九一)年、王寺と高田の間に鉄道が敷設され、明治四十年の鉄道国有法によって、大阪鉄道から国家に買収され国鉄線となった。
また、昭和二(一九二七)年には、近鉄大阪線が完成し、同四年に開通した南大阪線とともに通勤や通学に利用され、地域の発展に大きく貢献している。